はじまりは、いつだったのだろう。




物心が付いた頃、既に暴力は日常だった。
恐い顔をして怒鳴る父親と、泣きながら謝る母親。やめて、とも言えずにただ震えている子ども。それが晃一。
子どもである晃一には優しかった父親が何故母親を殴るのか分からなくて、寧ろ信じられなくて何もできなかった。
今考えれば、止めに入って晃一も殴られるが怖かっただけのような気がする。
そんな日々が長く続いて、晃一も5、6歳(だったと思う)になったある日、母が言った。

「晃一…」

細かい傷の絶えない母を見上げた。泣き腫らしたのだろうか、母は腫れて充血した目で、それでも無理をして微笑んでいた。
どうしたの?と心配した声を上げると、そんな顔させてばっかりね、と小さく言う。
それが酷く寂しそうで悲しくなった。元々綺麗な人なので、笑っていて欲しかった。

「お父さんとお母さん、離婚することにしたの」

「りこん?」

言葉自体は知っていたが、まだ幼い晃一にはいまいちピンと来ない。首を傾げると母は困ったように笑った。

「お父さんとはもう会えなくなるってこと…かな」

少しだけ母の声が震えたのがわかった。瞳いっぱいに涙を溜めて、泣きそうになってるのも分かった。

「…寂しくなるね」

言った瞬間後悔した。母は膝をついて晃一を抱き締めて、ごめんね、ごめんね、と繰り返す。そんな顔をして欲しい訳じゃない。
確かに寂しいのも嘘じゃない。
でも、


「でも…お母さんがしあわせなら、それでいいよ」


驚いたように視線を合わせ、もう一度、先程よりもキツく抱き締められた。

「ごめんね、ごめんね…ありがとう」






それから暫くの生活は苦しかった。母は昼も夜も働かなければならなかったし、晃一は家のことを全て一人でやらなければならなかった。
独りでいることも多かったし、寂しかったけれど、母がしあわせそうに笑っていたからしあわせだった。
晃一が小学5年生になった頃、弘士さんという人を紹介された。
それが母の再婚相手、つまり今の父親、ということになる。
弘士さん、父はいつも柔和な笑みを浮かべていて、全身から優しさがにじみ出てるような人だった。
その内、父は晃一より3つ年上の弘幸という男の子を連れて来た。
父の連れ子だった。父も母同様一度離婚していたらしい。こんな優しい人がどうして離婚することになったのだろうと、その時思った。
母はこの2人と家族になりたいと言った。

「母さんが幸せになれるならそれでいいよ」

晃一はあの時と同じようなことを言ったんだ、と後になって気付いた。
それからの生活は楽しかった。弘幸、弘兄も優しくて面白くて、すぐに仲良くなった。
温かい家族ってこういうものだったんだろうか。
母は仕事を辞めなかったが、家にいる時間は格段に増え、家族揃っての食事というものもできるようになった。
やっと幸せになったんだと、思った。
みんなが笑って過ごせると思った。















晃一の家から10分程、駅からもすぐのファミレスに2人はいた。
そこで晃一が口を閉ざすと、それまで一度も口を挟まずにじっと聞いていた春樹が、ふむ、と真面目な表情のまま頷く。

「それがどうしてこんな状態なの?」

話すきっかけを待つようでもあったので、それまで料理に向けていた目を、晃一に合わせて聞いた。

「…うん。俺が中3の時…もう秋だったかな、父さんが会社…リストラされたんだ」

また、ぽつり、ぽつりと話し始める。















理由はよく知らない。結構偉い立場にいたらしいけど、それより偉い人を庇わされたんだと、弘幸は言っていた。
その日を境に、父はおかしくなった。
朝からお酒を飲むようになって、賭博に手を出して、家に寄り付かなくなり、たまに帰って来ても、酔ってて話にならない。
母の収入とこれまでの貯蓄で生活には困らなかったけど、家の中はぐちゃぐちゃだった。
幸い、弘幸は推薦で大学が決まっていて、晃一自身もランクを下げてどうにか高校に受かった。
そうして父がおかしくなって4ヵ月くらい経った頃だったと思う、母は突然姿を消した。
弘幸はもう既に大学の寮に引っ越していて、その日のことは知らない。
ごめんなさいと生活費は入れます、の2文だけを残して母は家を出ていったのだ。

父が元に戻れば母は帰って来ると思った。だから、父が家に戻る度にもうこんな生活は止めようと説得した。
でも、もう優しかった父の姿はとうに消えてしまっていて怒鳴るようになり、まるで決定打のように、言った。



「お前は、本来俺の息子なんかじゃないんだ」



ああ。と気付いた。
此処にいてはいけない、ということ。
晃一が此処にいる以上、父は幸せになれない、ということ。
元々母の振込んだ生活費は全て父に持ってかれているし、晃一が生活できなくなるのも時間の問題だった。
出て行くには丁度良い機会。
そして同時に大量のお金が必要だということにも気付かされた。
まず出ていく家の光熱費云々の支払い、自分の生活費、出て行くなら自分の家の家賃、数え上げたらきりがなかった。
そして、決意する。



















「普通のバイトじゃ食い繋げないからさ…」

そこで躊うように言葉を切った。この男は、どう思うだろうか。軽蔑されたらそれはそれでもう仕方ないけれど。
春樹が言葉を待つので、諦めたように一息つく。


「…身体売った」


一度言葉にすると止まらなくて、暫くは客と行ったホテルで寝泊まりしたこととか、あの日の傷もその所為だとか、いらないことまで話していた。
春樹は驚くでもなく蔑むでもなく同情するでもなく諫めるでもなく、ただ話を聞いていた。

「何となく、事情はわかった」

全てを話終えると、春樹はそれだけ言った。そして今からそれに行くのかとも聞いた。行くよ、と短く答える。何故か一瞬苦しくなった。
春樹は一瞬だけ考えるような仕草を見せて、けれどすぐに微笑を浮かべる。

「そう」

その微笑の意味が分らなくて首を傾げた。するとまたくすり、と笑った。
きっとモテるんだろうなぁと頭の片隅でつい考えてしまう。

「今日何時くらいに帰るの?」

「?分かんないけど…多分2時くらい」

それを聞くと、春樹はテーブルの脇にあったナフキンと店のアンケート用と思われるボールペンを取り、何かを書きはじめる。

「俺に何かして欲しいことあったら、いつでも言って」

そう言って渡されたのは数字と英字の羅列。それが電話番号とメールアドレスだと気付くのに暫くかかった。

「う?」

理解できずに妙な声を上げ春樹と渡された紙を交互に見る。

「…そろそろ行こっか」

お会計して来るから、と春樹は先に席を立つ。
もう一度、その存在を確かめるように紙を見つめた。


変な奴、だなぁ。
でも嬉しさで頬が緩んだのが分ったから、受け取った紙を両手できつく握り締めた。









やっと…!!!

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