『八日目』


少年は息を切らしていつもの川辺に来た。
いつも通りに流れる川、いつも通りの風、空、
何もかもいつも通りなら肩で息をしながら笑顔で兵隊を呼んでいる筈で、しかし少年が声をあげる事はなく、立ち尽くしたまま視線を泳がせた。
鼓動が速い。走ってきたのもあるが、それだけじゃない。もう一度川辺に視線を泳がせる。やはり、先の風景と何ら変わりはない。

兵隊はやっぱり何処にもいなかった。

解っていた。それでも期待せずにはいられなかった。いきなりあんな事言われても信じられるわけなかった。
少年は兵隊がいつも寝転んでいた場所に蹲り、込み上げた嗚咽を飲み込んだ。
堪えられずに漏れ出た音が声になる事はなく、喉に詰まって苦しくなる。


また、ひとりぼっちになってしまう。










灰色の空に浮かぶその飛行物体を見て、兵隊は初めて今逃げたらどうなるだろうかと考えた。
しかしその思考が続く事はない。これは初めから決まっていたのだから。考えなくても分かる、結末などどちらも同じことだ。

「ガキ。今から暫く一言も話すなよ」

兵隊は端的にそれだけ言うと、麻布の袋に手を伸ばした。
空から、目を逸らして。

「はっ?」

兵隊は少年の疑問符に答えずに袋を漁っている。しかも身体を起こして胡座を組んでいる。
あれほど執拗に眺め続けていた空からあっさりと目を逸らすなんてどういうことだろう。そもそも何故ずっと空なんて眺めていたのかと、今更な疑問すら浮かぶ。
しかし一言も話すなと言われてしまったので少年は素直に従うしかなかった少年は出かかった沢山の言葉を曹達味と一緒に飲み込む。
兵隊は黒い、兵隊の手に余るくらいの大きさの物体に向かって何か言っている。異国の言葉だ。そしてその黒いものからも雑音と人の声のようなものが聞こえた。
暫くそれが繰り返され、その度少年は曹達水をコクリと口に含んだ。
兵隊の表情は帽子に隠れて横顔すらよく見えない。ただ声はいつもより冷たくて、機械的で何となく、少し怖い。
そもそも仕事をしているところなど想像できなくて、目の前でそれが行われていてもなかなか実感が湧かなかい。
暫くその応対を続けた後、兵隊は溜め息を一つ吐いて漸く少年へと振り返る。初めてまともに向き合った兵隊の顔は、やっぱり若そう。あと、やっぱりいつもと少し違った。

「空、見なくていいの?」

もっともっと聞きたい事はあったけれど、最初に出てきた言葉は何故かそれだった。
空を眺めていない兵隊は何か変だ。
急に夢から覚めたみたいな、兵隊が兵隊じゃなくなったみたいな、少年はまだ現実に追いつけてない気がした。

「仕事終わった。」

兵隊はそういって川の方に目を逸らした。困ってるんだと、思う。

「…もう、ここには来ないの?」

返ってくる答えは分かってる。曹達水を握る手に力が入って、両手が少し震えた。
ちゃんと分かっていたつもりだ。兵隊がいつまでも此処にいることはないと。

「あぁ。今日で最後だ」

兵隊は何処までも淡々と、この何処までも続く曇り空のそれみたいに、ただ答えた。ああほらやっぱり。
少年は先程の兵隊との会話を思い出した。
いつかくると覚悟してた。このままずっと兵隊といれるはずないと。気付いてた。いつか兵隊はいなくなると。
それでも良かった。家で独り、母の帰りを待ち続けるなんて寂しかっただけ、だから。大丈夫。ちゃんとさよならくらいできる。我侭は言えない。
楽しかったよって言って、曹達水ありだとうって言って、それから、
それから、

「なん、で」

口を出た言葉は声になるかならないかくらい掠れていた。
その事と自分の言葉に驚いて咄嗟に訂正しようと口を開くけれど、出てきた言葉はやはり思っていたのと違った。

「…やだ、」

違う、言いたいのはこんな言葉じゃない。兵隊さんを困らせたいわけじゃない。
少年は必死に喉を鳴らそうとすした。それでも言わなきゃいけないさようならは喉が震えるだけで出てこなかった。
兵隊の顔が見れなくなって俯いた。何も言わないけれどきっと困っているに違いない。視界に入る曹達水でさえ見たくなくなって目をかたく閉じた。

「ごめん、悪い、…ごめんな」

黙っていた兵隊はさっきの語調とは変わって本当に苦しそうにそう言う。予想していた言葉と違い、はっとして顔を上げるとその表情も苦しそうにしていた。
そして俯いてくしゃりと少年の髪を撫でた。兵隊の手のひらは冷たくて骨ばっていて、でも多分優しい。

「本当は突き放して終わりにするつもりだったんだけどな」

自嘲気味に吐き出したのは独り言にも聞こえて、何も言えずに黙るしかなかった。同時に泣きそうになって、ゆっくり瞬きをして涙は目に押し戻した。
何度か兵隊も話し出そうとして口を噤む。迷っているようにも見えた。しかしその4度目に、兵隊はゆっくりと話し始めた。

「俺、弟いたんだ。」
「おとうと?」

突然の話題に少年は首を傾ける。それに過去形も気になって眉を少し顰めた。
また少年と目を合わせず川ばかりを眺めて兵隊は頷く、そうして続ける。

「少し前まで、内乱あっただろ?あれに巻き込まれて死んだ。それで残った俺が軍に保護された」

偶然流れ弾にあたったという。その声はただ乾いていて、それが逆に痛かった。
此処では人の死がそんなに珍しいわけではないが、やはり辛いものは辛いのだ。
しかし事実だけを伝えるように、兵隊の言葉に感情の起伏は見当たらない。

「…うん、」

それ以上何と言ったらいいのか分からなかった。それにこれ以上喋ったら泣いてしまいそうな気がした。
しかし兵隊は特に返事を期待していたわけではなかったらしく、独り言のように言葉だけを流していった。

「俺他に家族とかいなくて、そのまま軍に入った。けど体が上手く動かなくなった。それで暫くずっと放心してたらこの任務が来たんだ」

上官に呼ばれて部屋まで行くと、兵隊のほかに5、6人の男がいた。みんな兵隊に見覚えがないらしく顔を見るたびに怪訝そうな表情をしていた。
伝えられたのはただ単に空を眺め続けるこの任務。上官によれば変化があれば通信機で報告するだけという。
至極簡単な仕事に全員が戸惑っていた。そして軍では連絡は禁じられているはずなのに上官の脇にいた男が一人一人に便箋と封筒を渡した。
それを見て今度は全員が凍りついた。兵隊にははじめその意味が分からなかったし書く相手もいなかったので更に戸惑った。
しかし後から聞けばそれは軍からの用無しの宣告。つまりこの任務が終わり次第始末される、ということらしかった。
情報が漏れないように極秘任務を担当した兵隊はよくこうなるのだという。

「…なに、それ」

話について行けずに思わず口を挟んだ。しかし兵隊は話し続けた。

「2、3日すると気が狂って逃げ出す奴が出てきたんだ。何もする事がないから逆に辛かったのかもしれない。
そいつらがどうなったか知らないけど、多分死んだんだろうな。」

兵隊は死と聞いても何となくピンとこなかった。弟がいる所にいけるなら、それもいいかもしれないと思った。
身体を繋ぎとめるのは生に対する本能だけで、それすら日に日に薄れていった。
それから何日過ぎたか覚えてないが、そんな時に声が聞こえた。

そう言って少年を見た。

「お前の声が聞こえたとき、俺もおかしくなったんだと思った。」
「え?」

少年はその日を思い出す。そういえば兵隊は驚いた顔をしていた。
声をかけられた事に驚いたのだろうと思っていたが少し違ったらしい。
兵隊もその日を思い出していたのか、遠くを見ているように見えた。

「似てたんだ、…弟に」

また微かに兵隊は笑った。
笑みの先は多分少年じゃなくもっとずっと届かないところにあるんだと理解した。
いつもより長く此処にいる所為で僅かに雲に透けている太陽の色が雲に映って、更に暗くなってきた空が兵隊の顔に影を落としている。
先ほどより強く感じた。兵隊はいなくなってしまうのだ、と。

「冷たくあしらえば近づいて来なくなるって解ってたんだ。なのに、どうしても出来なかった」

沈黙が下りる。何となく兵隊の顔が見れない。

「兵隊さん…」

何を言えば良いのか分からなくて、泣きそうになって、でも困らせるわけにはいかなくて、結局出てきた言葉は意味を成さなかった。
どうしたら兵隊は此処にいられるのかと、そんな事ばかり考えてしまって、困らせたくないのにやっぱり泣きそうになる。

「これ、餞別」

兵隊が軽く投げて寄こしたそれは少年の大好きなもの。でも、兵隊と一緒にいるからもっとおいしかったのに。
受け取ると空になった瓶とぶつかってカランと音をたてた。
どうしたらいい?

「帰りな。もうじき暗くなる」

少年の気持ちなんか置き去りにして現実は進むんだ。なんとか繋いで明日までもって行こうとしても、その手は既に離されている。
今度こそ我慢できなくなって少年は涙をこぼした。それでも立ち上がって兵隊に視線を合わせた。眼に焼き付けるように。
そして唇を開いてなるべくいつもと同じに答えるのだ。

「さようなら」








まだ蓋の開けられていない曹達水だけが昨日を辿る術だ。これを開けてしまったら、今度こそ最後なんだろうと思う。
小さく喉を鳴らし流れ出る涙をそのままにして、兵隊に教えてもらった開け方で瓶の蓋を取った。
折れ曲がった金属製の蓋が川辺を転がって川の手前で止まる。
瓶からは甘い砂糖と炭酸のにおいと気泡が弾ける音がした。同時に何かの気配を感じてはっと横を見る。
瞳に入ってきたのは草色の隊服ではなくて、黒の体躯。尻尾をゆらゆらとさせて曹達水の蓋の方へ近づいていった。
野良猫だと分かると溜め息を吐いた。涙も引っ込んでしまって何となくその猫を目で追いかけた。
猫ははじめその蓋に興味を示していたが少年の視線に気付いたのか此方を向いた。目が合うと小さく鳴いてすぐにそっぽを向く。
川のほうを見ている猫の背中に何故か寝転ぶ兵隊の姿が重なって酷く戸惑った。
視線を移したけれど、思わず兵隊の定位置だった場所を見てしまっていた。
そこにも残像のような兵隊の姿が映って、理解する。


此処にくれば会えるのだ。
本物じゃあないけれど。少年の心の中の兵隊だって知っているけれど。それでもひとりぼっちではない。






きつく目を閉じて曹達水を一気飲みしようとしたが途中で喉の痛みに咽て失敗した。
灰色に霞む忘却の空。
川辺を歩く黒猫にあの人の姿を重ねて何となく後を付けてみた。
空になった曹達水をその右手に。








  


――――――
あとがき
兵隊と少年、それから空。
この三つのフレーズから1年かけて頭に流れた台詞と情景を書きたくなって、書き始めたけれど、
なんとか終わらせる事が出来ました。
本当は細かい設定とかを明かさないまま終わらせるつもりでした。
ただ書き始めると勝手に手が動くもので、最初の構想と違うものになってしまい…ええ。
あたしの感じた空間が少しでもつたわりますよう。
(20070304)